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コラム

トンネルの歴史と用途別種類

トンネル

トンネルは古代から現代にいたるまで、人々の移動や物流を支える重要なインフラとして発展してきました。現代、トンネル技術はますます高度化し、自然条件を克服するためだけでなく、都市の地下空間創設のためにも不可欠となっていますが、今回はそんなトンネルの簡単な歴史的経緯と用途別種類を解説します。

 

なぜトンネルは造られたのか

山

トンネルは地下や山岳などを通り二地点間を結ぶ土木構造物です。地球は陸地と海洋から成りますが、人類が棲みついた陸地では、山岳や川といった地理的特徴が人や物資の往来を遮断したり、迂回路の使用を余儀なくしていました。そのような二地点間を繋ぎ、利便性を高めようと開発されたのがトンネルです。

 

テルマエ・ロマエで有名な古代ローマでは、首都ローマへ上水を供給するためにトンネル部分を含む水路が建設されました。また、古代エジプトやメソポタミアでも、農業用の灌漑システムとしてトンネルが使用されていました。乾燥地帯への水の供給は文明の繁栄に不可欠であり、トンネル技術はその基盤となる重要な要素だったのです。

 

トンネルの歴史

トンネルの起源―古代文明で建設されたトンネル―

The Pont du Gard, ancient Roman aqueduct in southern France

古代ローマ水道の一部である水道橋ポン・デュ・ガール

記録に残る世界最古のトンネルは、今からおよそ4000年前にバビロニア(現在のイラク南部)に造られた全長約900mのトンネルです。ユーフラテス川の両岸にある宮殿と神殿をつなぐため、一部、ユーフラテス川の下を横断するように造られたと伝えられています。

 

他にも有名なものに、古代ギリシャのエウパリノスのトンネルがあります。サモス島にあるこのトンネルは、紀元前6世紀に山上の水源地から都市ピタゴリオンに水を引くために掘られた全長1036mのトンネルです。

 

また、古代ローマでは水道設備が驚くほど整備されていたことが知られており、その技術の高さと充実さは他に類を見ません。中でも最大都市ローマでは、遠く離れた山岳地帯の水源から11本の水道管を敷き、市内へ上水を供給していました。これら水道管の大部分は地下に埋設され、敵からの攻撃や汚染を防いでいたといわれています。

 

明治期以前の日本のトンネル

手彫りトンネル

手掘りトンネル(イメージ)

明治期以前の日本では、トンネルはもっぱらノミなどの簡単な道具を使った手掘りによるものでした。中でも鎌倉にある釈迦堂口洞門は、現在でも通行可能な日本最古の道路トンネルです(2024年8月現在、工事のため通行不可)。(引用:近世以前の土木遺産に見られる都道府県ごとの特徴, 馬場俊介, 樋口輝久, 丹羽野真也, 山元亮, 土木史研究(論文集), Vol. 29, 2010, pp. 113-129 )山に囲まれ起伏の多い鎌倉の地では、釈迦堂口洞門のような山の一部を切り崩して通行を可能にした切通しという通路が多くあります。切通しは基本的に上部が開けた構造のため、トンネルには分類されませんが、釈迦堂口洞門のようなトンネル型も例外的に存在します。

 

他にも大分県中津市にある青の洞門は、日本初の有料道路として有名です。青の洞門が造られた場所はもともと交通の難所で、中でも競秀峰の険しい岩壁をつたう鎖渡しとよばれる箇所では、岸壁に取り付けられた鎖を命綱にして渡らなければならないとても危険な道でした。人々がこの交通の難所で命を落とすのをみた禅海和尚は、石工たちとともにノミとツチだけでトンネルを掘り始めます。トンネルを掘り続けて30年ほどした1764年、ようやく約342m(うちトンネル部分は約144m)の洞門が完成しました。青の洞門は完成後、「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てたという話が伝わっており、日本初の有料道路といわれています。

 

明治期のトンネル技術輸入とその後の発展

明治時代に築造されたトンネル

明治中期に築造された京都市にある粟田口トンネル(出展:国土交通省

大政奉還がされ明治時代に入ると、日本は様々な分野において急速に西洋文明を取り入れ始めます。土木技術も例外ではなく、現在のトンネル施工に通ずる土木技術もこの時期に初めて日本に紹介されました。

 

近代技術輸入期であるこの時代、ほとんどの土木工事はイギリスを初めとするお雇い外国人技術者によるものでした。 日本初の鉄道トンネルは明治4年(1871年)に完成した石屋川トンネルですが、このトンネルもまた、西洋技術を日本へ伝えるために雇われ、来日した外国人技師の手によるものでした。石屋川トンネルは、日本発の鉄道路線である新橋・横浜間の路線建設に続いて造られた大阪・神戸間の鉄道建設時に掘られたトンネルです。

 

押し進む近代化の中、鉄道路線の増加と拡張に伴いトンネル工事が増えていきます。外国人技師とともに工事にあたっていた日本人技術者たちは、その過程で着実に外国人技術者の技術を習得していきます。そして初めて日本人だけの手により建設されたトンネルが、京都・大津間の鉄道敷設に伴い施工された逢坂山トンネルでした。明治13年(1880年)の完成後、大正10年(1921年)の路線変更まで東海道本線として使用されていました。現在残されているのは東口のみで、昭和35年(1960年)に鉄道記念物に指定されました。西洋から近代的な土木技術がもたらされてまだ数年と間もない頃に、自分たちの手で鉄道路線を敷こうと獅子奮闘した明治の技術者たちの思いのつまったトンネルです。

 

トンネルの用途別種類

交通用トンネル

道路トンネル

交通用トンネルは、道路や鉄道のために造られたトンネルです。山や川があるところにトンネルを造ることで、それまで峠を越えたり、船で行き来しなければいけなかった箇所の往来が楽になり、効率的な物流が実現できます。

水路用トンネル

ダム

農業用水やダムなの水を通すためのトンネルを水路用トンネルと呼びます。農業用水路は水源から農業地まで水を届け、作物の育成を可能にし、ダムの水路トンネルは川への流水量を調節し治水効果を高める、どちらも私の生活に欠かせない非常に重要な役割を果たしています。

 

共同溝用トンネル

共同溝

共同溝とは、電気・水道・ガス・電話線などの生活に欠かせないライフラインをまとめて収容するための設備です。道路下の地下にトンネルを掘り、電気・水道・ガス・電話を通すだけでなく、維持管理に必要な空間も同時に確保します。そうすることで、異なる事業者が管理する設備であっても、共同溝から出入りすることで維持管理が可能となり、従来のように各事業者がメンテナンスをするたびに道路の掘削工事をし、通行止めをする必要がなくなります。また、共同溝は工事渋滞の軽減のほかにも、ライフラインの安全性確保や環境保全、景観の向上につながります。

 

都市施設用トンネル

地下駐車場

都市施設用トンネルとは、地下街や地下駐車場、駐輪場といった都市特有の施設のためのトンネルを指します。日本では、高度経済成長期以来、人口の都市流入が進み、都市部での交通問題が発生しました。中でも自動車の普及とともに交通渋滞と駐車場不足は深刻で、1957年には政府が駐車場法を制定し、都市部にあふれる自動車の駐車整備が推進されてきました。八重洲地下街はこの頃建設された代表的な地下都市施設です。当時の交通問題を受け、東京駅間近に巨大な駐車場が設けられました。

 

備蓄用トンネル

ガスタンク

日本では、第1次オイルショック(1973年10月~1974年8月)を受け、1975年に「石油の備蓄の確保等に関する法律」が制定されました。オイルショックの影響はすさまじく、石油資源を主に中東地域からの輸入に頼っていた日本は大打撃を受け、原油価格が70%引き上げられたことから激しいインフレになりました。こうした経済や国民生活への大きな影響を受け、将来起こりうる石油危機に備えようと制定されたのが「石油の備蓄の確保等に関する法律(石油備蓄法)」です。

 

石油備蓄法では、石油とLPガスの備蓄が定められており、現在、全国に国家石油備蓄基地が10か所、民間の借り上げタンクが10か所設置されています。備蓄方式には地上備蓄と地下備蓄の二通りがありますが、地下備蓄では、地下の岩盤に巨大なトンネルを掘り、その中にタンクを設置し石油やLPガスを貯蔵します。

 

さいごに

私たちの生活を支えるインフラとして欠かせないトンネルですが、身近な高速道路や地下鉄だけでなく、共同溝やエネルギー備蓄用にも利用されていることがお分かりいただけたかと思います。特に東京などの都市圏では、地下設備の充足化に伴い、トンネル造成の需要はますます高まりつつあります。ふだん利用している地下鉄などのトンネル設備がどのように始まり発展してきたのか、その歴史に思いを馳せると日常の景色が少し違って見えてくるかもしれません。次回は、トンネル工事の施工方法についてご紹介します。

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